振付家インタビュー③ 松木萌
「自己矛盾と生きる。」
聞き手:神前沙織(JCDN)
神前(以下、K): 今回上演いただく「Tartarus(タルタロス)」という作品は2020年3月にJCDNの若手振付家育成事業「ダンスでいこう!!」のプログラムの一つで、東野祥子さんのワークショップから生まれた作品です。その後、初演時の映像をKYOTO CHOREOGRAPHY AWARD(KCA)2020に応募されて、書類選考、アワード審査を経て最終的にKCA奨励賞を受賞されました。
松木(以下、M): ありがとうございました。
K: きっと、ご本人も驚かれていることと思うのですが、少し、この作品のはじまりについて、「Tartarus」がうまれた外側の経緯ではなく、松木さんの内側のきっかけをお聞かせいただけますか。
M: はい。ワークショップの参加者には、今興味のあることや好きなものを持ち寄るという宿題があって、その時私はイタリアの靴のデザイナーのドキュメンタリー映画を見たばかりだったので、その靴の写真を持って行きました。彼が映画の最後に「僕は足の造形がこの世で一番好きなのに、それを隠すための靴を作っているなんて、すごく皮肉だよね」と笑いながら言うのですが、私はその笑いと言葉がすごく印象的でした。うまく言葉にできないのですが、こうしたいけどできない、とかなぜこうなったんだろうとか、自身の欲と理性の間にある状態や偶然性に導かれる力に抗おうとする姿とか、自己矛盾を孕んだ状態に自身で笑ってしまう感覚にすごく興味がある、という話をして。他にも、いくつか興味のあることを持って行きましたが、その興味のあるものが似ている人と創作が始まりました。ワークショップの時はまだタイトルのない形での軽い発表だったので、コンセプトなどを深く考える時間もなく、その後「Tartarus」としてKCAのためにリクリエイションする中で、今回のコンセプトみたいなものがみえてきたような気がします。
1秒1秒、生きるほど私たちは死に近づいていきますよね。例えば一生が、皆一定の回転数の歯車だとしたら早く必死に回れば回るほど、停止が早く訪れる。止まるために今動く、みたいな感覚が、舞台に関わっているときの私にいつもあり。何かに追い立てられている感覚で、それは単純に本番というゴールに向かって、ということでもなく、身体を酷使している点でいつまでできるかな、という単純なところだったり、他にもいろいろあるんですがそこと歯車というか、歯車感というのにつながっていきました。
2021年の3月に「Tartarus」を上演する前に2020年の11月に「VENUS」という作品を発表したのですが、そのころからギリシャ神話に興味を持っていました。
K: 前作、拝見しました。そうだったんですね。ちょっとそれてしまうんですが、ギリシャ神話のどのへんに興味があるのですか?
M: 生々しさ?自身の運命とか欲望と、社会的な目、理性の中で戦っている姿に惹かれました。
K: 日本の仏教とかよりも?
M: ギリシャ神話のほうがなんとなく有機的で自嘲感が強い気がしています。
実は「VENUS」の前に「WORM HOLE」という作品を<はなもとゆか×マツキモエ>で発表したのですが(2016年アトリエ劇研、2017年こまばアゴラ劇場)、そのときは、八百万の神とか日本の仏教の話を参考にしていました。
K: そうだったんですね。先にそっちから入ったんですね。
M: そうですね。ちょうど厄年で、厄払いに行った伊勢神宮に感動して、建物の造形とか、早朝だったので日の出とその空間と。そのまま日本の神話にハマりだした時期です。そういうものを意識した作品を作った後に、たまたまギリシャ神話を読む機会があり。
K: より生々しいものに惹かれていったわけですね。
M: どこかで興味があったから手に取ったんだと思いますが、本当にたまたま。
K: タルタロスそのものはギリシャ神話の地獄・奈落の神なんですよね。私自身は、ギリシャ神話に全く明るくなかったので、なぜこれをタイトルにしたのだろうと気になって、少し調べてみたのですが。よくよく調べると日本の仏教における地獄とほとんど同じで。ただ、一つだけ違うのは、日本の地獄に落ちた亡者は、罰が終ると輪廻転生して解放されるのに対して、タルタロスに落ちた罪人は未来永劫その苦しみが続くという。
M: そうですね。
K: それは大きな違いだなと。最後に救われる場合もある日本の仏教と違う。救いがなく、未来永劫その苦しみが続くというギリシャ神話を、あえてモチーフにされたんですね。
M: そこは私の自分なりの死生観とか宗教についての考え方が関わっていると思います。
K: 「Tartarus」は、ギリシャ神話の神をタイトルにしつつも、もちろんそのまま物語とかギリシャ神話そのものを演じるわけではないと思うんですね。これは私の勝手な感想なんですけど、「KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD2020」の上演を拝見して、一見重々しいテーマやモチーフだけれども、情緒的な感じや、わかりやすい物語でもなくて、淡々と情景を紡いでいる感じが一番印象に残ったところでした。この世のことを、とても客観的に静観されている感じというか。それは、ダンスでなければ描けない世界だなという風に思ったんです。タルタロスそのものの世界を描こうとしているのではなくて、なにか言葉で言い表せないことを描こうとしているんじゃないかなと思ったんですけど、松木さん自身が、この作品を通して探求しようとしていることを聞かせてもらえますか?
M: 必死に生きようとしている、一生懸命生きている人の姿でしょうか。必死に生きようとすればするほど、どこか人は外側と内側がズレていく感覚を伴うのかなと思っていて、その自身のズレを少し引いてみたときに私はちょっと笑ってしまうことがあるんです。でも必死な時は目の前のことしか見えない。皮肉ですが。生きている人、生活をしている人の中の、人の中にある人の姿というか。たぶん、ただ精一杯ちゃんと生きる姿だと思います。生をまっとうするって、どういうことなのかなって。
K: 生きることって、とても明るく描かれることが多いですよね? 普通っていうとよくないんですけど、一般的には応援歌みたいなものが多いのではないかと。それをあえて全く逆の方法で描こうとしていますよね。
M: そうですか?
K: うん。だって、奈落でしょう? ぜんぜん、生きることと真逆の方向から生きようとする姿を、描こうとしていますよね。
M: 死の世界で希望のない者を永遠に見続ける宿命を生きるということが、私にとって一番、生をまっとうしていることにたどり着くことだったのかもしれません。
ちょうど、KCAの上演が行われた頃はコロナで舞台作品がどんどん映像化されていた時期で。映像化や配信の流れに私は乗り切れなかったので、劇場でしか味わえないものを作りたい、という思いが強くありました。そこで、平台を使ったり、音楽をサラウンドにしたり、暗くて映像だとよく見えないくらいの照明にしたり。後から考えたらKCAもライブ配信があると最初から言われていたので大変迷惑な話なのですが、自身の劇場への愛と天邪鬼さが相まって「劇場舞台地獄の奴隷」っていう裏テーマを勝手に持っていました。踊っているのか、踊らされているのか。こんな時期でも舞台、劇場から離れたくない、離れられない、自身への皮肉も込めて。
K: なるほど。最初におっしゃった自己矛盾でもあるのですね。
M: そこに人らしさがでると思って。
***
K: 少し作品の話から離れて、松木さんとダンスの関りについて伺います。埼玉のご出身と伺いましたが、ダンスを始めたきっかけは?
M: きっかけは曖昧なんです。きちんと習ったことがなくて。
K: あ、本当に。いろいろ習ってきたのかと思っていました。
M: いえ。教室などにはまったく。小さい頃はマイケル・ジャクソンのビデオを見て踊っていました。父が好きで。高校生でストリートダンスを知りました。その頃に流行っていたガールズっていう名前通りのダンスを。大学のサークルでもやっていました。知り合いと一緒にビデオ観ながら踊るみたいな感じで。
K: じゃあスタジオに通ったりしていない。
M: してないです。好きでしたが人前で踊ることに抵抗、というか普通に恥ずかしさがあって、家で踊っていました。あとは高校の時に体育で創作ダンスの授業があって、みんなでダンスを作るのは面白かったんです。当時流行っていた洋楽にのせて振りを作り、みんなでやってみるみたいな感じでしたが、楽しかったです。
K: なるほど。その後、大学で京都造形芸術大学(現 瓜生山学園京都芸術大学)の映像・舞台芸術学科に入られますね。大学時代に創作はされましたか?
M: はい、いくつか。大学のダンスの仲間とみんなで作品を作ったり、演出したり。授業の発表公演とかもあったので、大学で初めて、人前で踊らせてもらいました。
K: 卒業後、2008年に同期の花本ゆかさんとのデュオ<はなマツ>を結成して、現在まで継続して、松木さんが演出・構成を担当して作品を発表されるスタイルですよね。ダンサーとしての活動ではなくて、作品を作る振付家もずっとやってこられていますが、その面白さ、ここまで続いている理由をお伺いしたいのですが。なぜダンス作品を作ろうとするのか? というのは、一方でANTIBODIES Collective(アンチボ)でダンサーとしても活動されていますよね? それをしながらも自分で作品を作って上演し続けるのは、なかなか骨のいることだと思うのですが、作り続ける理由というか?
M: 作る理由、色々ありますが、<はなマツ>に関しては、もともと花本さんのことがめっちゃ好きっていうところが大きくて。
K: それは、今回の新作(「DAISY」)でとても感じました。でも、どういうところが? 人のために作品を作り続けるって、なかなか大変なことじゃないですか?
M: そうですか? いえ、花本さんのために作るっていう感覚ではなくて一緒にいたいからつくる、という感じと、花本さんを通して自身が何を考えているかを自分で理解するっていう感覚です。自分の作品のほうが、もっとしんどいというか。自分自身のことをよくわかっていないんだと思うんですけど。作品を作るときも、自分の選択したことを客観的に見て、ああ私こう思っていたんだって、理解するのが遅くて。自分の思考のほうが遅くて、あ、こっちだ!の感覚が先でそれを見て理解して進めるので、むしろ一緒に作る人の方が大変です。花本さんの方が。
K: お聞きしていると、すごく人が好きなんでしょうか。そんなに一人の人をメインに作品を作り続けようって思えないと思うので、そこが松木さんの魅力的なところなのかなって話を聞いて思います。じゃあ、作り続ける理由はそれでいい?
M: 人が好きという感覚はあまりないんですが。あとは劇場、特にブラックボックスの空間が単純に好きです。ワクワクしますよね。
K: 今回は、<はなマツ>ではない作品で、どちらかというと男性メインの作品ということですけど、そういうふうに<はなマツ>を離れて作るのが初めてでしょうか?
M: 初めてです。ANTIBODIES Collective で、短編とか、機会があり自身の短いソロ作品は過去にもあったんですけど、誰かに出演してもらう作品というは初めてだったと思います。
K: どうですか? やってみて。
M: けっこう戸惑いがあって、ほぼ初めましての状態だったので難しかった部分もありますが、それはその良さがありました。知らないことでその人の個性から作品を作るのではなく、外側の世界観、ディティールから作品を作っていけたので。
K: ロームシアター京都での再演にあたり、出演者が変更されて、黒田健太さんになりますが、何か期待感っていうのはありますか? 黒田さんはダンサーとして共演が何度かありますよね?
M: そうですね。<はなマツ>の公演に2回出演して頂きました。私がどんな風につくるか、身体についての言葉のニュアンスなどをもう知っているので、そういう意味で世界観が共有しやすいと思います。ただ<はなマツ>は、個人的な人の面白さを語る部分が大きい作品性ですけど、花本さんがいない状態で松木がつくるものは、もしかしたらダンサーの人間性ではなく、その人ならでは、ではないところの面白さも感じてもらえる作品にしたいと思っています。世界観とか。
K: ダンサーの人間性やキャラクターに依拠するのではない作り方っていうことですよね。それは、勝手に解釈すると、作品の作り方として、より普遍的になる事かもしれないですね。きっとそこでフォーカスしているのは人の生っぽさなんだろうなって最初のお話を伺って感じました。
***
K: 質問を変えますが、振付家ってどういう仕事だと思いますか?
M: 振付は、型をつくって、そこにはめていく作業のような気がしています。
K: それってあんまり肯定的にとらえていないってこと?
M: いや、そうでもなくて。それこそ普遍? 私の場合、先にダンサーに動いてもらって、そこから振りを作っていくことが多かったので。適当に動いてって言われて不快に思う方もいたと思います。ただ先に即興でダンサーに自分の話(ダンス)をしてもらって、その話の私が興味深いところ、作品のテーマ、基本的に私が今興味あることになりますが、それに繋がる身体性を見つけて、編集して組み込んでいくので、振付家の目線からみたその人の型を提示することになるのかなと。つくった振付をお願いする時もありますが、それも結局最終的に私の中にある作品のための、どちらかというと社会的な型にはめていくというか。いい言葉がうまく見つからないのですが。
先ほどの花本さんの話でもありましたが、私は誰か、他者を通して自分が何を考えているか知ることが多いんです。私の振付を渡して、それを客観的にみたときに次の方向をやっと決めていける部分もあります。そういう意味では私の個人的な話に社会性を帯びさせていく作業でもあります。散文を整理し、修正し、客観的により多くの人にわかりやすい文章にするような、校正のお仕事に似たものも感じます。
K: 「Tartarus」にも感じたところですが、ダンスでしか表現できないことってあると思います? あるいはなぜ今ダンスをやろうとしているのか?
M: なぜ今と言われると、最近仕事を辞めたので、今これしかできないから、としか言えないですが、偶然性を重視しているので、今はこれも何かの縁かなと思います。有難いことと。
ダンスでしか表現できないこと。表現という言葉で適当なのか、ただそう言われるものが本当はあるって思っている一方で、それはすごく狭いなという思いもあって、絶対にあるって言えない自分もいます。
例えば誰かにとって、他の色んな芸術にも、もしかしたらそれはあるもので、ないわけがなくて、だからどちらともいえないといいますか。ただ自分にとってそれがダンスだったということなのかもしれません。
K: いま仰ったことは非常に自己矛盾を孕んでいて、「Tartarus」の作品のキーワードとして出てきたことですけど、そこに繋がるんだなという風に思いました。
M: そうですね。こう思う!って思った数分後にいや、違う、みたいな。なので一緒に作品をつくる方はすごく大変だと思います。
K: 正直に話していただいて、ありがとうございます。ロームシアター京都での再演にあたり、リクリエーションを試みられます。どんなところに重点をおいて再創作されますか?
M: 世界観を、重視していきたいなと思います。<はなマツ>作品とは違った世界観。
K: 松木さん流の「Tartarus」の世界と、そこで必要な身体性を掘り起こそうとする試みでしょうか。
最後にコンテンポラリーダンスを初めてご覧になるお客様もいらっしゃるので、メッセージをいただけたらと思います。どんなふうに作品を見てほしいか?
M: 年の瀬ですが1年を振り返りながら、少しだけ日常と離れて、色んな人がいるなって思っていただけたら、こんな生き方もある。多様性じゃないでしょうか。コンテンポラリーダンスの良さの一つにはそれがあると思います。
K: ありがとうございました。
(2021/11/29 京都にて)